「わが社は絶対に一件の事故も許さない」「100%安全が我々の目標だ」――一見素晴らしいスローガンに思えます。しかし、「ゼロリスク」を掲げる組織ほど危険だとしたら信じられるでしょうか。本記事では、リスクをゼロにしようとする思考(ゼロリスク思考)が招く弊害と、経営として取るべきリスクベースの意思決定について解説します。「100%安全神話」に潜む罠を理解し、現実的で強靭なリスクマネジメントへの転換を図りましょう。
ゼロリスク思考の落とし穴:コスト肥大と隠蔽のリスク
まず指摘したいのは、100%の安全を追求することの非現実性です。あらゆるリスクを完全に排除することは現代のビジネスにおいてほぼ不可能です。それにもかかわらず「リスクが少しでもあるのは許せない、ゼロになるまで対策せよ」というゼロリスク思考に陥ると、以下のような問題が生じます。
- コストが青天井に膨らむ
- リスク低減策には費用が伴いますが、ゼロを目指せばコストは指数関数的に増大します。しかも、一定水準を超えると追加費用あたりの効果は急激に下がり、費用対効果が著しく悪化します。限られた予算や人員を過剰防衛に割けば、他の重要施策が手薄になり本末転倒です。
- 報告忌避・隠蔽の助長
- 「リスクゼロが絶対目標」となると、現場はリスク事象を報告しづらくなります。「問題を報告すると怒られる」「失敗があってはならない」というプレッシャーから、トラブルを隠したり過小報告したりする文化が生まれかねません。その結果、表面上は平穏でも水面下にリスクの芽が蓄積し、発覚した時には手遅れの大事故に至る危険があります。
- 柔軟性の喪失
- 100%安全を求めるあまり、業務に過度な規制や許可制を導入すると、現場の創意工夫や新しい挑戦が阻害されます。「失敗できない」雰囲気では社員は委縮し、チャレンジしなくなります。これは長期的に見て企業の競争力を奪うリスクです。
以上のように、ゼロリスクを公言すること自体が組織に新たなリスクを生み出すというパラドックスに陥りかねません。「絶対安全」は魅力的な旗印ですが、現実にはそれを盲信することが最も危険なのです。
「リスクはゼロにできない」という現実認識とリスク受容
経営者がまず直面すべきは、「どんな努力をしてもリスクをゼロにはできない」という厳然たる事実です。この現実を受け入れた上で、適切なリスクマネジメントの舵取りをすることが求められます。
キーとなるのはリスク受容の考え方です。リスクとは完全になくすものではなく、分析・理解した上で適切な範囲で受け入れるものです。経営判断とは常にリスクと便益のトレードオフです。ゼロリスク神話にとらわれず、「許容可能なリスクレベルはいくらか」「残余リスクと得られる利益は見合っているか」を冷静に見極め、意思決定することが重要です。これはまさにリスクベースの意思決定であり、現代の経営に欠かせない視点です。
具体的には、まず自社のビジネスにおける様々なリスク(情報漏えい、サイバー攻撃、災害 etc.)を洗い出し、それぞれの発生可能性と影響度を評価します。その上で、リスク対応策にかけるコストと期待効果を比較検討します。「起こるかどうか分からない最悪事態」に際限なく備えるのではなく、「起こり得る範囲の事態に対して、合理的なコストで備える」という発想です。
例えば、あるリスク事象の発生確率が極めて低く、起きても軽微な損害で済むなら、高価な対策を講じるより受容(何もしない)を選ぶことも正解です。一方、発生すれば致命傷となるリスクには集中的に投資すべきでしょう。このようにメリハリをつけたリスク対応こそ、限られた経営資源を最適配分する秘訣です。
また、リスク受容には「残存リスクについて経営陣が腹を括る」覚悟も必要です。100%安全を標榜する組織では、往々にして経営陣が「リスクがあること自体」を認めたがりません。しかしリスクとはゼロにできない以上、重要なのはその存在を認めた上で準備をすることです。例えば「当社もサイバー攻撃を受ける可能性がある」という前提に立てば、発生時の対応計画(インシデントレスポンス計画)やサイバー保険の検討など、建設的な備えができます。逆に「うちは絶対大丈夫」と慢心していれば、有事の際に大混乱に陥るでしょう。
「完全防御」より「早期発見・早期対応」へ:リスクマネジメント経営
ゼロリスク思考から脱却した組織が目指すべきは、早期発見・早期対応を重視したリスクマネジメントです。昨今のサイバー脅威の高度化により、「侵入を完全に防ぐ」ことは実質不可能との認識が広まっています。そこで重要性を増しているのが、**被害を最小限に抑えるレジリエンス(復元力)**の考え方です。
例えば情報セキュリティ対策においても、従来は「ファイアウォールで突破されないこと」が重視されてきました。しかし現在では「突破されることを前提に、侵入をいち早く検知し被害を食い止めること」が重視されています。具体的には、EDR(Endpoint Detection & Response)やMDR(Managed Detection & Response)といったソリューションの導入に代表されるように、攻撃を受ける前提での監視・対応力強化がトレンドです。これはゼロリスク幻想から現実的リスクマネジメントへのパラダイムシフトと言えるでしょう。
経営層にとって重要なのは、こうしたリスクベースの対策への投資判断です。予算にも人員にも限りがある中、「何に重点投資し、何を受容するか」を決めるのは経営の役割です。その際、「100%防ぐために無尽蔵に投資する」のではなく、「重要なリスクに絞って投資し、それでも起きうる残存リスクには対応計画で備える」というバランス感覚が求められます。
さらに、ゼロリスクを目指さない姿勢は企業文化にも良い影響を及ぼします。社員に「ミスやトラブルは起こり得るものだが、早期報告・対応すれば被害は小さい。だから問題があればすぐ報告しよう」というメッセージを浸透させられれば、隠蔽体質を防ぎオープンな組織風土を醸成できます。これは結果的にリスク情報の共有を促し、組織全体の危機対応力を高めます。
「ゼロリスク信仰」を捨て、リスクと共存する経営へ
リスクと共存するとは、「危険を放置する」ことでは決してありません。むしろ、リスクを直視し正しく恐れることです。経営トップが「我が社に絶対安全などない」と公言するのは勇気が要るかもしれません。しかし、その誠実な姿勢こそが現場にリスク意識を根付かせ、ひいては真の安全文化を育む土壌となります。
最後に具体例を挙げましょう。ある企業では「当社は完璧に守られている」という神話のもとセキュリティ投資が後手に回り、セキュリティインシデント発生時の訓練も行っていませんでした。結果、小さな侵入にも気付かず甚大な情報漏えいを許し、経営に大打撃を受けました。一方、別の企業では「インシデントは起こる」との前提で年次訓練を実施し、サイバー保険にも加入していました。実際に攻撃を受けた際は即座に被害を限定し、取引先への報告・再発防止策提示も迅速に行えたため、信頼を損なわずに済んだのです。
この差を分けたのは、リスクに対する経営姿勢の違いです。ゼロリスクを追い求める組織は、皮肉にもリスクに脆弱です。リスクを直視し、付き合い方をマネジメントできる組織こそが、環境変化に強く持続的に成長できるのです。経営層の皆さんには、「ゼロではなく最適なリスク」を目指す胆力と賢明さを持っていただきたいと思います。それが最終的に企業を“最も安全”かつ“挑戦できる”状態に導くことを、ぜひ忘れないでください。